だいぶ前のことなんですが、バラエティー番組で、タレントさんがネギを使ってそばを食べているの見たんです。その前のシーンは「目の前でおぼれている人がいたら、どんな行動をするのか」を観察するような趣旨の番組だったので、これも騙しているのだろうと思ったのですが、本当にあるんですね。
ということで大内宿を訪れました。
朝早く起きて中禅寺湖を4時間かけて一周したあと、日光からSLに乗り、電車(汽車?)、バスを乗り継いで到着すると、すぐに日が暮れてしまいました。時間が遅かったのでバスの乗客は私を含めて二人。運転手さんに宿泊先を告げて、降りるべきバス停を尋ねていると、大内宿に住んでいるらしいもうひとりの乗客(小学生)がバス停を教えてくれ、降りてからはだいぶ先をチラチラと振り返りながら先導してくれたので迷わずたどり着けました。知らないおじさんだからね、その対応が正解。
端から話が逸れてしまいました。
大内宿は、福島県会津地方の宿場町で、江戸時代に会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれたそうです。参勤交代にも使われた道に沿って茅葺き屋根が整然と並んでいます。
宿場町全体が重要伝統的建造物群保存地区に指定されていて、旧宿場としては長野県の妻籠宿、奈良井宿に続いて全国で3番目とのこと。ちなみに、お宿も重要文化財指定を受けた建築物です。

玄関はこんな感じです。元は土間だったんでしょうね。

私の泊めてもらった部屋は増築された部分で、文化財の部分(?)にある部屋にはひとりだと泊まれなかったのですが、その日の宿泊者がチェックアウトされた後にちょこっと覗かせてもらいました。

泊まれなかったのは残念ですが、なるほど、たしかに一人には広すぎますね。左側のふすまを開けると縁側があり、道路に面しています。休日はここで物販もしているそうです。

朝の大内宿です。上流にあるダムまで走っていって、見下ろすとありました。でも遠すぎてよくわかりません。この下にはかつての街道が埋まっているのでしょうか。
ダムと言えば、天和3年(1683年)に発生し、東照宮奥社宝塔を倒壊させた日光地震によって日光に向かう途中にある山の一部崩壊で、宿場町と周辺の街道が堰止湖に水没して、会津西街道の機能が失われてしまったことがあったそうです。この時、代替路として整備された会津中街道に流通がシフトしてしまい、40年後の享保8年(1723年)に大雨によって堰止湖が決壊して会津西街道が復旧しても、すでに定着した代替路や新たな脇街道により、主要幹線として復活することはなく、大内宿は純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の特徴的な形態となったそうです。ずいぶん前から民泊ってあったんですね。

大内宿の中ほどに大きな鳥居があって、そこから脇に入ると田んぼが広がっています。1975年の空撮写真と比べると区画が整理されていますが、「半農」の部分ですね。奥に進んで右側に神社があります。また、集落の脇には、小学校の分校だった建物を見かけました。もともとそんなに児童数は多くなかったのでしょう。校舎と体育館が同じくらいのボリューム感でした。

朝の大内宿です(再)。整然と並んでいます。
ここでは当初の敷地割が今でも引き継がれていて、間口は6~7間。おおむね南北方向の道に妻面を向けており、玄関は建物間の通路を通っての平入り、で揃っています。

それにしても道が広い。今でも残っている古い街並みって、たいがい道が狭いじゃないですか。でもこれも大内宿の宿場町としての苦難の歴史の一部。戊辰戦争の戦火を乗り切り、明治になって会津西街道がひと山越えた川沿いに付け替えとなったのに対抗しようと、中央を流れていた用水路を分けて両側に移し、街道の幅を広げたのだそうです。そのうえ先ほど触れた当初からの町割りで「オモテ」と呼ばれる約3間の空地が設けられているのでさらに広い!
これはもう壁面線?
店から店へ移動するときはこの空地を通ってしまえるので公開空地と呼んでもいいかも知れない。
道の部分だけでも幅は4m以上あるし(6mあるかも)、法以前から道なので法42条1項三号道路?幅は狭いけど、各敷地との間に水路があるから法43条2項の認定か許可が要るのかな?
とか想いを馳せていたのですが、
ここは都市計画区域外。
法3章は適用されません。
そうか。ここは都市計画区域外だから、(改正後の)法6条1項三号建築物は確認申請が要らないんだな、と思ったら違いました。ここ、大内宿のある下郷町は全域が「都道府県知事が関係市町村の意見を聴いてその区域の全部若しくは一部について指定する区域」で、申請が必要なのです。
想像が無に帰したり、裏をかかれたりしたので、もう一度上から眺めてみます。

人が増えてきました。お昼には少し早いですが、ごはんを食べに、また降ります。いただくのはもちろん、大内宿を訪ねるきっかけになった高遠そば!


本当にネギで食べるんですね!…食べにくい!
ちなみに、ネギはちょっと辛め。
床の間には「天照皇大神」とかかれた掛け軸。泊めてもらった民宿にもこの掛け軸がありました。流行ってたんですかね。

斜めに撮ってしまいましたが、こちらは大内宿町並み展示館。本陣を再現したものとのことで、他の建物よりも大きめです。パネルや生活用具が展示されています。囲炉裏には火が入っていて、煙もモクモク。記録が残っておらず、他の宿場町の本陣を参考にしたとのことですが、本格的です。
このように再現したものはあまりなくて、多くは元の建物を民宿や飲食店、物販店(軒先や縁側だけでやっているところが多い)として利用しておられます。このほかに見学できる住宅もありました。これは博物館的な位置づけなのかな。
これって、民泊ならぬ民博?
とか、懲りずに想いを馳せながら大内宿を後にします。

こちらが最寄り駅。1987年(昭和62年)に建て替えられたものです。乗り継ぎがいいとは言えないですが、中には売店や喫茶コーナー、隣に足湯があるので、めいめいに待ち時間を過ごしています。
駅とはバスで15分ほどの距離。この少し離れた駅の登場で、大内宿は決定的に宿場町としての地位を失います。やがて、手間のかかる茅葺屋根は、トタンで覆うようになり、ふすまはガラスに、建具はアルミに変わっていきます。また、街道の裏側に増築もしていきますし、街道も舗装されたそうです。だって、実際に生活しているんだもの。快適に暮らせるように改良していくのは、住人としては当たり前ですよね。
しかし、取り残されることで、積極的に開発されることがなく、町割りが残されたからこそ、今の大内宿があるのでしょう。残されていた街並みは、1960年代後半ごろから研究者らの調査によって再評価され、また、先ほど走っていったダムの建設による収入の変化(現金収入への転換)や、1981年に重要伝統的建造物群保存地区となったことを経て、外側に並行する道路の整備、無電柱化、茅葺屋根の復元等を行っていったとのことです。訪問中も茅葺の工事を行っているところもあって、保全や整備が続けられている様子が窺えました。イベントも多く開催されているようで、これらの甲斐もあって1985年に2万人だった観光客数は、2009年に116万人に達したそうです(現在は80万人前後で推移)。
このように大切に維持されている江戸時代の街並み、素晴らしいですね。
少しひねくれた視点ですが、ここに小学校が必要なくらいに多くの子どもたちが走り回っていた時期、観光地でなかった頃の、もとの茅葺屋根の建物にいろいろパーツを取り付け、カスタマイズして生活していたであろう昭和の風景なんかも思い浮かべてみると、また違った楽しみ方ができます。みなさまもお試しあれ。 (A.N)