今回は佐渡に行ってきました。
佐渡はかつて流刑地として、多くの貴族や知識人、文化人が流された地であることが、佐渡島の文化に多くの影響を与えているそうです。また、佐渡は北前船の寄港地としても栄え、金山の採掘が行われる等、多くの富を築いてきた歴史もある地です。
<宿根木伝統的建造物群保存地区>

江戸時代に千石船産業の基地として整備され、繁栄した当時の民家が、今でも残されている小さな集落です。村には船大工をはじめ造船技術者が移住し、自前の船で全国各地へ乗り出し、廻船業で富を築いていました。
宿根木集落の特徴は、家屋が非常に密集していることだそうです。約1haの土地に110棟の建造物を配置する高密度…とリーフレットにありますが、現地を歩いてみて、その密集性を実感。

薄暗い路地が、小さな集落で迷路のようにあちこちに伸びています。なんだか時間が止まっているみたい!これらの建物が現在でも使われていることがすごい。逆に言うと、現在でも使用されているからこそ、ここまで集落が残っているのでしょう。

時間も止まっているようですが、空気も止まっているようで、狭い路地は少しジメジメ感じます。1階はなんとなく薄暗そうだし、排水環境なども昔は良くなかっただろうな、と想像します。海に近いエリアで高密度に家が密集するということは、生活環境が必ずしも良いとは限らなかったのではないかな。
普段はあまり注目していない条文ですが、改めて建築基準法の第2章のあたり、第19条とか大事やな、と感じました(笑)。
かといって、道を広く確保し、通風・採光を確保し、明るく衛生的な街にしてしまうと、この集落はもう宿根木では無くなってしまうのだろうけど。

建物には船大工たちの技術が生かされているのでしょうが、技術だけでなく、船に使われた板(千石船建造の際に余ったり廃船となったものや、船の板を取り替えたもの)を一般家屋に利用されています。船の木材は大切な資源だったそう。
そう言われてみると、集落には板壁の張られた建物がたくさんあり、宿根木の特徴的な景観となっています。
密集した地域では整形の土地が得られないこともある。

↑これは最大限に土地利用を図った知恵と技の結晶。見るからに船大工の技術が家づくりに生かされていると感じます。
建蔽最大限まで利用って、防火避難的にはあまり歓迎されなさそうだけど、設計者としてはかなり優秀と思いました。
いくつか中に入れる建築物がありましたので、江戸時代後期から明治にかけて財を成した廻船主の邸宅「清九郎」に入ってみました。建築材料、技術とも当時の宿根木集落内の最高水準を誇る建物だそうです。

漆塗りが施された2層吹抜の居間です。細部まで贅を尽くした造りの家でした。
中でも「おおっ!」と思ったのが…

↑プラーンと紐が垂れ下がっていますが、これは吹抜空間の上部の障子を開け閉めするためのもので、船の帆を張る仕組みが利用されています。
こ、これは、日本最古のオペレーターとちゃうか?!
(知らんけど)
先ほど言ったように、宿根木には板壁が張られたおウチがたくさんあるのですが、実は土蔵もたくさんあるのだそうです。廻船業でたいそう繫栄していた頃、その財を守るために、蔵を板で覆って家にカモフラージュし、外観で蔵と分からないようにしているのだとか。えっ、そうなの?!確かに土蔵があるなんて全然気付かなかった。
見分けるポイントもあって、通常の家の棟には鬼瓦が乗っているのですが、蔵の建物の場合は、棟の部分に大黒様が乗っているモノがある、とのことです。


↑写真の建物の棟部分には確かに大黒様が…。これ、家じゃなかったのか!確かに窓から見えているのは白い漆喰の壁かも。

家と思っていたら、木の戸の隙間から中の白壁の土蔵の扉が見えるように公開されている建物もありました。
ここの土蔵の説明では、「海風等が強い地域では、覆屋をかけて土蔵の白い漆喰を保護している」と書かれていましたから、カモフラージュについては諸説あるのかもしれません。

宿根木の近くで千石船を復元、展示している所がありました。確かにこれが造れるなら、お家くらい造れそうです。でも今はもう船を船大工が造る時代ではないので、この技術は継承されないのかもなぁ・・。
そして船はもちろん立派だったのですが、これを収めている大きな木造建築物の方がいろいろと気になるのは、建築基準法に携わる者の癖(へき)(笑)。
移動中、道沿いに見つけた「人面岩」です。

想像を上回る人面の美しさ!!!こういうのって普通、もっとモッサリしてたり、無理矢理のモノを想像するのですが、鼻がツンと尖がってて、めっちゃ美しい横顔!
私の中のベストオブ人面です(笑)。
<佐渡金山・相川>
佐渡金山は1601年に開山されて以降、平成元年資源枯渇により操業を停止されるまで、388年間にわたり産出した金は78t、銀2,330t、掘り進めた坑道の総延長は約400kmに達しており、当時日本の最大の金銀山で、江戸時代には天領として幕府の財政を支えたのだそうです。
平成元年まで続いていたのに驚きました。このような金山は、むかーしむかしの自分が存在しない時代のお話と勝手に思っていましたが、自分の生きている時代と並行していたものだったのですね。

↑この山が佐渡金山の象徴的な外観の「道遊の割戸(どうゆうのわりと)」です。ここに金銀鉱脈が発見され、その頂部から手で掘り進められた露頭掘跡です。山の形が変わるまで手で掘り進めるって、すごい。
全然関係ないですが、この時期、佐渡ではブリが旬を迎えており、刺身とかブリかつ丼とか、とても美味しかったです。私にはもう、この山の形がブリの口にしか見えない(笑)!

江戸時代の採掘坑道「宗太夫坑」と明治以降の機械掘坑道「道遊坑」を両方見学できます。
まるで蟻の巣のようです。江戸時代の坑道を見ている時は特に感じなかったのですが…


コンクリートで覆われた明治時代の坑道に入ると、例のあの問題が頭に浮かんできます。
見学コースとして整備された坑道は、建築物か建築物じゃないのか問題。
私の感覚としては鍾乳洞に近いように思うので、建築物ではないと思います(笑)。
これに比べて大谷石の採石場はどうしてあんなに建築物っぽく見えるのか。単に形の問題なんでしょうか?

展示スペースでは、このようにアクリルケース越しに金の延べ棒に触れるコーナーが人気でした。想像以上に重くて持ち上げられなかったです。割と無防備な展示に、ああ、日本は平和な国で良かったな~と感じました(笑)。
金山のある町、相川も歩いてみました。金銀の大鉱脈が発見されると幕府は相川を天領として奉行所を置きました。この辺りには鉱山関係者がたくさん移り住み賑わっていた町。八百屋町、米屋町などといった町名は、その当時売っていたものにちなんだ町名になっているとか。奉行所と金山を結ぶメインストリートの相川京町通は、京都の有名な西陣織を売り始めた織物屋が由来だそうです。


鉱山に入るとなかなか外には出られない過酷な仕事でしたでしょうから、仕事を終えた人々は、山を下りて、この通りを「今日は何を食べようかなー」なんて思いながら八百屋町に向かって歩いていたのかもしれません。たくさんの人が仕事を求めてこの地にやってきたんだろうと考えると、金山採掘は壮大な公共事業だったのでしょうね。


金山の近くの「北沢浮遊選鉱場」です。日本で初めて浮遊選鉱技術を採用。その設備規模は東洋一とうたわれました。昭和10年の写真を見ると、右の写真の施設は大きな屋根が掛かるとても近代的な建物だったんだな、と分かります。
今は「佐渡のラピュタ」なんて呼ばれているそうですが、かつての栄華と荒廃が、まさに実写版のラピュタでした。
佐渡の旅はとても楽しかったです。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。そして忘れてはいけない、新潟は美味しいお酒もたくさんありました。佐渡の尾畑酒造の真野鶴、美味しかったな~。次はどこに出かけようか。考えると楽しみです。(K.T)
