026松本城


8時ちょうどのあずさ5号で、私は新宿から旅立ちます。

山梨サイドの富士山は曇っていて見えませんでしたが、今回の目当ては松本城。国宝五天守の1つで、私にとっては唯一の未踏天守です。

幼少期、私はガンプラよりもお城のプラモデルに興味を持っていていくつか作ったりしていたのですが、松本城だけ値段が高くて(広い堀と朱色のクランクした橋を含むぶん、他のより大きかったから?)手が出せなかったりした思い出もあり、興味は昔からあったのに、学生の頃に訪れたときは何故か入城せず、通り過ぎてしまっていたのです。

ところが、どうも2028年から改修工事を行うために、しばらく天守に入れなくなるというのを聞いたので、今のうちに訪れることにしたのです。(2026年3月に、着工は2029年に後ろ倒しになったと発表があった)

松本城は、前述のとおり国宝です。現存する天守の中では最古級で、同時期の多くが小高い丘に建つ平山城なのに対して、松本城は平地に建つ平城です。それでいて、石落としや狭間等の実戦型の防御装備を備えながら、月見櫓のような平和的な要素も併せ持ち、戦国の城から江戸の城への移行が見られること等から、当初は1936年に、1952年には現・文化財保護法での指定を受けています。ということで、外から眺めていきましょう。

まず、十分に大きいのですが、丘の上じゃないので、そんなにそびえ立っている感じは受けません。実戦型という謳い文句のわりには、シュッとしていて武骨というより美しい感じすらします。そんなに高くないからなのか、時期的なものか、反りがなく直線的な石垣です。

本丸への入口は黒門。1960年に復元され、さらに奥の門が1990年に復元されて桝形(侵入されても取り囲んで反撃できるようになっている構え)ができました。入場料が必要なのはここからです。本丸から天守を望みます。

そんなに人はいないように見えます。うまくピークをかわしたのでしょうか。中央にそびえ立つのが大天守。五重六階、真っ白なしっくい壁に、腰壁は漆塗りの下見板張り。右に渡櫓を介して乾小天守がありますが、耐震性が不足しているということで、現在は入れません。“エキスパンションジョイントその他の相互に応力を伝えない構造方法のみで接している場合における当該建築物の部分”にはなっていないけれど、見学したい側なのでツッコミは入れません。で、左側にポコッとついているのが辰巳附櫓、その下部に見えるのが月見櫓です。渡櫓から天守に入っていくのですが、ここにテント屋根が張ってあります。だけどうまい具合に手前の木で隠れるアングルです。その他の売り文句もいくつか写っています。では天守に向いましょう。

近くまで来て見上げてみると、ごつごつしてきました。石落としや狭間が見えますが、石垣がそんなに高くないので、寄り付かれるとピンチな気がします。一方、月見櫓の朱い高欄はアクセントになって、いい具合です。晴れていたらもっと映えるんでしょうけれど。

天守には渡櫓下部の石垣の合間から中に入っていきますが、階段を登ったところが1階です。ということは、石垣は擁壁で、その頂部が地盤面なんですかね。高さの算定、少し引っかかりますね。

2階は展示室になっています。お城の展示と言えば、鎧、兜、刀剣、槍の印象ですが、ここでは鉄砲が大半を占めています。鉄砲と言えば堺や国友(滋賀)で集中的に作っていたと思っていたのですが、国友から職人がスカウトされてきて、松本でも生産していたそうです。すべて松本製ということではないようですが、羽根つきの大きな砲弾のようなものや小型のもの等、松本市出身の個人のコレクションが寄贈されたものだそうです。ちなみに、鎧は1セットだけでした。

外からは空いているように見えていましたが、2階に上がってみるとかなり混んでいます。やはりここにもインバウンドの波が押し寄せていました。私が天守に入ってから最初に撮った写真はこちら。

3階です。この階は屋根に覆われていて窓がありません。写真は明るく撮れてしまっていますけど、暗い感じです。なんだか思っていたより柱が多く、天井は低いです。1.4m以上はあるので、階にはなりますね。4階は逆に階高のある立派なフロアだったので、護衛の人たちが暗闇に潜んでいたのかも、なんて想像を膨らませてみましたが、倉庫だそうです。

4階はこのとおり。御座の間(ござのま)と呼ばれ、御簾もあったりして、なんだかお城っぽくありません。いざというときに城主が座る場所だそうですが、天守の防護設備も含め、ここに籠る時点で、ここ以外は負けているのに頑張っても…と思ってしまいます。ここから5階に上がる階段が見どころです。

傾斜は城内最高の61度蹴上げは40㎝の松本城イチのアトラクション。梯子でも30㎝ですよね。かつ、当時の人ってそんなに大きくないし、バリアフリーどころか、バリアです。また、階段は1か所なので、上り下りで大渋滞です。5階も天井は高いですが、かざりっけなし。階高が高いので、踊り場のある階段(ただし狭くて両側通行)で6階に。最上階に上がると広がる眺望!とはならなくて、それほど大きくない窓があるくらいの、割と閉鎖的な空間でした。でも窓から外を覗いてみると、そこには雄大な日本アルプスが…

…雲が低くて見えませんでした。空が見えないので地面を見ると、右側に緩く上がっていっています。平たい松本城界隈ですが、扇状地の端っこにあるそうです。向こうの方はフォッサマグナ(ラテン語で大地溝帯の意だそうです)の西の端を形成する糸魚川静岡構造線という断層で下がっていて見えませんが、今朝乗ってきた“あずさ”の由来になっている梓川が流れているようです。ということで下に降りてきて、増築部に進入します。

エキスパンションジョイントではないですね。大天守・渡櫓・乾小天守は1593年ごろの新築、辰巳附櫓・月見櫓は1634年ごろの増築だそうです。長い時間をかけて変わってきたわけではなく、新築時から40年間の出来事ですね。

月見櫓はその名の通り、防御性能が全くないおもてなし空間で、戸は開放できるそうです(半分しか開いてませんが)。将軍をお迎えするために作ったそうですが、結局来なかったそうです。

外に出てから見上げてみました。左側の部分には堀の水面が見えます。前述のおもてなしルートとして、ここから船に乗るプランを考えていたとのこと。将軍用に作られたと言われていますが、近年の調査では、それまでに作る準備はしていたけれど、たまたま来ることになったから急いで完成させた説もあって、実際、その後は他のゲストや、身内で使われてはいたようです。

離れて見た天守たちと本丸です。ここには当初、御殿があり、政務所と住居として使われました。役所と公邸ですね。その後、お城あるあるですが火事で焼失し、再建されることなく更地に。明治に入って手入れされることなく荒れ地となり、払い下げられ、博覧会に使われ、その収入で買い戻され、農地になり、旧制中学のグラウンドになり、ついには野球場になりプロ野球の公式戦も行われました。当時は既に松本城は国宝ですし、あかんやろと気づいてこのような使い方を廃止したのは1953年です。このころ天守は相当傷んでいて、野球場であった時期に視察にやってきたGHQの担当官に怒られたのがきっかけで、昭和の大修理が実施されたようです。一方、役所と公邸は二の丸御殿に移ったあと、明治に入ると県庁舎として使われ、これもやがて焼失したそうです…。

堀の外に出て、その昔、松本城に興味を抱く原点となったあの橋を見に向かいました。避難上は有利ですが、お城に侵入しやすくなる橋が複数あるのは変だなと思いながら、せめて侵入速度が落ちるようにクランクしているのかなとか、鮮やかな朱色なのは、月見櫓とセットなのかなとか思っていたのですが、なんとこの埋橋(うずみばし)、昭和の大修理の際に観光用に作ったものらしく、もともとは堀の中に塀を設けて敵の移動を妨げる足駄塀(あしだべい)があったそうな…。

仕切ってしまったら堀の水を堰き止めてしまうじゃないか、と思ってしまいますが、先ほど天守から見たようにここは扇状地の端部で、北から南にゆるやかに傾斜しています。北側に水がたまらなくなるため、堀もところどころ堰き止めているので、理にかなってはいるようです。

そして扇状地の端部といえば伏流水ですよね。かつての城内には多くの井戸があり、街道の結節点であることのほか、もし囲まれても水には困らないというのも、戦国時代にあっても敢えて平地に城が構えられた理由のようです。

そのうちの一つの井戸を道端で見かけました。井戸というより湧いています。街中にはいくつか親水施設として水路が作られており、近年の多くの街や施設の広場では止められている水がサラサラと流れていました。これも湧水ですかね?

他にもないかなと道路面を見ていると、ご当地マンホール蓋が現れました。

2か所だけ撮っていました。柄は同じようですが、色違いになっています。松本市は、かつて伝統工芸品だった「松本てまり」の復活をプッシュしているらしく、松本市立博物館のホールにも「てまりモビール」というモニュメントが飾られていました。

このモニュメントには、作家や市民が糸を通して作った146個のてまりが使われているとのこと。おおーっと思いながら、竪穴は全館避難安全検証法かなと、こっそり思ったり。

市民参加と言えば、松本城の買い戻し。前述のとおり払い下げされたあと、天守は除却されそうだったのを食い止めるために行われたそうです。地元の有志(発起人の一人はかなりの実業家だったみたいだけど)が買い主にかけあって除却を待ってもらって、松本城で博覧会を開催。計5回開催された「筑摩県(ちくまけん)博覧会」の展示内容は、最新の科学技術から、歴史的なお宝、さらには自然の生き物まで何でも集めたものだったそうですが、“お宝”は市民が出展したものが多かったそうですし、入場者は市民が中心だったので、入場料や寄付も市民の力ですね。

きっとここまで、大小さまざまな困難を乗り越えて400年以上も残ってきたんでしょうね。そしてこれからは令和の大改修。冒頭に触れたように、耐震補強や堀の復元工事が予定されており、しばらく天守には入れなくなるそうです。今回は、そんな節目を迎える前にこの目で見ておきたいと思ってやってきました。来てみれば、戦うための城と平和な城の両方の顔があり、近代になってからの危機も乗り越えてきた、とても魅力的なお城でした。(A.N)